磐上教会

教会de哲学カフェ

原則として毎月第4木曜日の夜に「教会de哲学カフェ」を開催しています。
参加者全員が気持ちよく、安心して対話を楽しめるようにと設定したルールのもとで、

キリスト教とは関係なく、あらかじめ設定したテーマに沿って、自由に語り合うカフェ形式の気楽な集いです。

哲学用語や専門知識は必要ありません。興味のある方はどなたでも大歓迎です。

 

おしらせ

次回の「教会de哲学カフェ」は、2 月 22 日 (木) 19時−20時30分に開催します。テーマは追ってご案内します。 参加費300円

 

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前回の「教会de哲学カフェ」の様子

 

第 53 回報告 1 月 25 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 正当性について考える

哲学カフェ53 20240125

2024年1月25日、日本キリスト教団磐上教会にて、哲学カフェを開催致しました。通算第53回目の今日は、『正当性について考える』と題して、10人の参加者で縦横無尽に語り合われました。価値観が多様化し「何が正しいのか」という、物事の正しさが揺らぎだしているように感じられる現代生活で、自分の正当性を主張するとはどういうことなのか、身近な体験や社会情勢に照らしながら色々な考えが話し合われました。「自分は正当に扱われていない」といった不満を持つ心、などについても考察されました。正当性の問題は倫理的妥当性から、権力支配の論拠となる政治概念まで幅広く考えられます。政治において正当性が疑われる事象が相次いでいる昨今ですが、このような状況は20世紀戦間期の1930年代、ワイマール共和国末期のドイツで法哲学者カール・シュミットが著した論文『合法性と正当性』において提起した問題を改めて考えさせられます。本日もご参加くださった皆様に心から感謝申しあげます。次回は2月第四木曜日午後7時から行う予定です。

 

第 52 回報告 11 月 30 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!

 

テーマ: 『 娯楽と休息

哲学カフェ52

今回は『娯楽と休息』と題して、娯楽とはそもそもなにか?趣味と娯楽の境い目は?ただ愉しいだけで終らなくなって、しんどくなったり、依存したりするのは娯楽と言えるのか?休むことの積極的意義は?等など、実にさまざまな角度から多くのことが語り合われました。娯楽を意味するフランス語のディヴェルティスマンはもともと、本題と関係ないことに気を逸らせることを表します。この娯楽(気晴らし、気散じ)を求める人間を、ハイデガーは『存在と時間』においてダス・マン$「人と呼び、ダーザイン¢カ在者と区別したことなどを最後にお話しました。この会を毎回楽しみにご参加くださる皆様に心から感謝申しあげます。次回は来年1月25日に開催予定です。ご興味のある方お気軽にお尋ねください。

 

第 51 回 10月 26日 に開催しました。

哲学カフェ51 「旅する」とは

哲学カフェ51 「旅する」とは

 

第 50 回 9月 28日 に開催しました。

哲学カフェ50 あいまいさについて

哲学カフェ50 あいまいさについて

 

第 49 回 7月 27日 に開催しました。

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先週2023年7月27日(木)夜7時から、磐上教会哲学カフェ通算第49回目を開催しました。
枚方市が国内で最高気温となる記録的な猛暑のなか、開催時刻に夕立が降りだしましたが、参加予定の皆様は無事に集まってくださり、12名で哲学カフェを開催できました。うち、初めて参加された方が5名おられました。また当初予約されていて都合で欠席された方2名を足すと、定員を超える参加応募をいただきました。

 

今回のテーマは「 言葉について 」。あまりに漠然としたテーマ設定なので、参加された皆様はどこから話し始めたらいいか戸惑われたと思いますが、それでも話が進むにつれ、意思伝達のツールである言葉の用い方、SNSでの言葉のコミュニケーションの難しさ、世代間の感覚の違い、方言などの地域特性、日本語のいわゆる行間を読む式の意思疎通、身体言語・非言語的コミュニケーション、西洋語の名詞の性に必然性があるか否か、もやもやした感情をノートに言葉化して書く習慣づけで見えてきたこと、言葉は「こと」の「葉」であり事柄を限定するものであり言葉ですべてを言い尽くせない、言霊とはなにを表わすのか、等々、身近な言語経験から感じたことや、言葉の起源に思いを馳せる話など、参加者相互で質問を投げかけたりしながら、気がつくとあっという間に1時間30分が過ぎてしまいました。

 

私たちが日常運用している言葉をサイエンスの対象として分析する近代言語学を創始した、ジュネーブのフェルディナン・ド・ソシュールは20世紀初頭の『一般言語学講義』において言語活動の表層の部分( 現実に語られる発話 )であるパロル( 話し言葉 )と、深層の部分( 文法による言語 )であるラングとを区別し、ラング( 言語 )を歴史的な通時性ではなく非歴史的な共時性で取り出すことにより言語学の研究対象を明確化し、その後の構造主義の分析方法に大きな影響を及ぼしました。

 

今回の哲学カフェの出席者皆さんの自由な語り合いを伺いながら、私は生活の中で私たちの話すパロルの中にある、私たち自身が意識していない奥底の思いや「言霊」、非言語的コミュニケーションについて考えていました。今回のテーマ設定は荒っぽかったにもかかわらず参加者皆様の積極性のおかげでいろんな方向に対話が展開し、黒板の板書がとても追いつかないくらいでした。言語について、今後も形を変えて対話をしてみたいと思います。

 

 

これまでの「教会de哲学カフェ」の様子

第37回 2月27日の黒板
哲学カフェ37 022720

 

第37回目は、『 嫉妬心について 』 というテーマでした。新型肺炎コロナウィルスのため開催を見合わせるか直前まで苦慮しましたが、
最終的に開催を判断し、マスク着用と手洗い等の準備の上、予定通り始められ、今回は定員を上回る14名のご参加を得ました。
そのような状況のなか、嫉妬というテーマについて参加者皆様が様々な見解を出し合い、かなり突っ込んだ内容の会となりました。
嫉妬心は老若男女問わず人間の根源的な感情のひとつであり、かつ、およそ古来より克服さるべき悪しき感情とされてきました。
嫉妬から何か積極的なものがうまれるのか。
ネガティブな感情をばねにして、人間的成長の糧とすることができるか。
実体験、実感をもとに参加者皆様が率直に話をして下さいました。
初めての参加者が3名ということも久しぶりで、嬉しい会となりました。皆様に心より感謝申し上げます。

 

第36回 2020年1月 23日の黒板

2020.1月哲学カフェ

2020.1月哲学カフェ

 

 

第31回 9月 26日の黒板

2019.9月哲学カフェ

 

第30回 6月 27日の黒板

ローマ書 講解20 レジュメ  2019年 6月 25日

 

 

第29回 5月23日

 

 

 

 

第28回 4月25日

 


 

 

 

第27回 3月28日

 


 

 

 

 

第26回 2月28日

 

2月は成田牧師が東京出張のため不在、ということで、やむなく黒板の板書のない回になりました。
そのような状況にも関わらず、ほぼ満席の11名のご参加をいただき、「居心地が良い」とは?というテーマのもと、対話が弾みました。
絵本「葉っぱのフレディー」の一節を朗読して下さった方、ご自身の「居心地が悪かった」経験をお話し下さった方、居心地の良い場のあり方を身体面・精神面の両面から考える必要性を指摘された方もおられました。
学校や社会の「居心地」になじめない人々に寄り添うような発言も多く、そうした中から、居心地は必ずしも与えられるものではなく、自分で切り開くものと感じた、という前向きな感想も語られました。
「葉っぱに生まれてよかった」とつぶやいたフレディーのように、「自分に生まれてよかった」と思えることが人生の居心地の良さなのかも知れないと、考えさせられました。

 

 

 

第25回「教会de哲学カフェ」、1月 24日 (木) に開催しました。

 

 

 

12名のご参加をいただいて、「教会de哲学カフェ」3年目がスタートしました。
「宗教」について語るなんて、普段ありそうでない経験。(しかも教会で・・・)
互いの意見や経験談に真摯に耳を傾ける、温かく受容的な雰囲気の中、活発な対話が交わされた会になりました。
お一人お一人の言葉が心に響く、印象深い哲学カフェでした。

 

 

 

 

 

 

「 教会 de 哲学カフェ 」2周年謝恩特別企画、 12月 27 日(木) に開催しました。  

 

2年間支えて下さった参加者の皆様と共に、感謝を込めて2周年謝恩企画「哲学夜咄」を開催しました。シチュエーションデザインを引き受けてくださったアーティストの参加者様のおかげで、小さな会堂が素敵な空間になり、ご参加下さった皆様に喜んでいただけたことと思います。( 通常回は定員12人ですが今回は初参加6人を含めて計21人のご参加をいただきました )

 

 

 

 

 

 

 

いつもと違うムーディーな空間で「哲学カフェと自分」というお題でのトークセッションも、思い思いに話し出される中から皆様の素敵な言葉を拾うことができました。参加者のどなたもが安心して語れる場という理想に、少しでも近づけていたなら幸いです。

 

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 23 回、 11月 29 日(木) に開催しました。  

 

今回は9名のご参加を得て、「学ぶ」とはどういうことかについて話し合い、様々なヒントが出されました。情報処理と模倣だけに終わらない、それを超えるところにある学びの価値を考えさせられたことと、学んだ分だけ自分を好きになれる、という言葉を拾ったことが印象に残りました。話に集中して黒板板書をするのが追いつかず、時間が足りなく感じました。シンプルで地味なテーマでしたが、参加者皆様が積極的に発言して下さり助けられました。
次回の磐上教会 de 哲学カフェは12月27日歳末の開催、本会を始めてから二周年を記念して特別回とする予定です。リピート参加して下さる皆様、新しく来てくださった方、どなたも歓迎致します。

 

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 22 回、 10月 25 日(木) に開催しました。  

 

 

 

10月もコーヒーやお茶を飲みながら、リラックスした雰囲気で対話が行われました。ペットと暮らした経験がある人もない人も、動物が大好きな人も苦手な人も、動物と人間の関わりについて、多様な視点から展開していきました。「ペット」が人間本位の視点からのみ語られることへの抵抗感や、家畜とペットの違い、殺処分の問題、ペットが癒しや愛する喜びを与えてくれるからこそ「命」として尊重したいという思い、「命」であるからこそ求められる責任、など話題は尽きず、あっという間の1時間半でした。

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 21 回、 9月 27 日(木) に開催しました。  

 

 

「負い目」をどんな時にどう感じるか、といった身近な経験や感覚などを出し合うところから、参加者11名による対話がスタートしました。正しくあるべき時にそのように自分が振舞えなかった時、人から恩を受けた時、人間関係の中での「貸し借り」など、様々な例が出されました。
 そこから派生して、受けた恩はどこに返すのか?という問いや、「助ける」「助けられる」関係が固定してしまった時の閉そく感と、ヒエラルキー構造に繋がる危険性も指摘され、
強すぎる負い目感がもたらす怒りや負担感、などについてまで話は深まっていきました。
 終盤に、世界的ベストセラーとなった「負債論」の論旨の紹介がありました。その内容がこの日の話し合いに重なるところも多く、対話の締めくくりとして相応しく感じられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  この日のお菓子は、これ以外にも参加者の方の手作り餡
                  入りのあんぱんがあり、おトクな回になりました。

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 20 回、8 月 30 日() に開催しました。  

哲学カフェ第20回 2018年 8月 30日

哲学カフェ第20回を終了しました。初めてのご参加を含む7人で、「 苦手 」をテーマに話し合いました。見えてきたことは、自分の意志の力で克服できる・克服すべき「苦手」と、自分ではどうすることもできないで、そのことに押し潰されてしまうような類の「苦手」との二種類で、敢えて苦手であることをその人なりの生き方としてそのままにしてよいケースもあるのではないかという方向性も出ました。「 俺あの人、苦手なんだよねー 」って言う場合の苦手意識のあり方についても話されました。皆様のご参加に心から感謝申し上げます。次回は9月27日木曜日19時?20時の予定です。

 

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 19 回、7 月 26 日(木) に開催しました。  

哲学カフェ第19回 2018年 7月 26日

哲学カフェ第19回「人生の楽しみの見つけ方」と題し、「見つけ方」?と言われても分かんない!などと言いつつ、色んな楽しみの話題が出てあっというまの1時間半でした。13人のご参加でした。急に雨が降って来ましたが、足もとの悪い中お越しくださった皆様、本当にありがとうございました。

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 18 回、6 月 28 日(木) に開催しました。  

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遠方から初めてご参加下さった方を含めた10名で、「普通である」とは何か、その積極的/消極的とらえ方をいろいろな角度から話し合われました。

 

「 教会 de 哲学カフェ 」第 17 回、5 月 24 日(木) に開催しました。  

 

テーマ「年を取ることの不安と希望」

 

 

  初めてご参加下さった方2名を含めた10名で、多様な観点から活発な対話が行われました。経験談も多く、不安な中にも様々な希望の芽を見い出せた会になりました。1時間半の間に出された対話のかけらを、牧師がひとつひとつ大切にすくい上げて、1枚の黒板に表現しています。

 

 

 

 

「教会de哲学カフェ」第14回、2 月 15 日(木) に開催しました。  

 

 

 二階に会場を移して開かれた磐上教会哲学カフェは、
合計11名の参加者でした(風邪で欠席がお一人)。
沢山の方々が来てくださって本当にありがとうございます。
 
「 孤独について考える 」とのテーマで、しかし、とても賑やかに′黷闕いました。
礼拝堂が補強工事中につきリビングの集会室で、という臨時の効果も相俟ってか、これまでにも増して打ち解けた雰囲気で四方八方に会話が広がって、
閉会時間の後まで話題が尽きず話し込んだ回となりました。

 

 

 

参加者皆様の経験から、また考えておられることから、色々な発言が出されました。
 
孤独、寂しい、「孤独死」、「お一人様」、地域で挨拶や笑顔を欠いたディスコミュニケーションが生む孤独、孤独が他人の目から「かわいそうなこと」だと見られること、コミュニティからの孤立・疎外という自ら望まない環境下での孤独、そして、「死」は究極の絶対的な孤独(看取ってくれる人の有無にかかわらず)というハイデガー的な孤独観。
今回参加者のお一人は、御母堂様を見送って御葬儀を済まされたところで来てくださり、「死」と孤独について、自然と話が深まりました。
 
 

孤独という言葉の持つそもそも否定的なニュアンスについても、話すうちに、色々な捉え方が見えて来ます。
例えば子どもの感じた孤独、また、子どもには大人が失いがちな孤独への耐性もあること。田舎の親戚づきあいが、あまりに近く濃密過ぎて、孤独なほうが楽に感じること。独居の高齢者がいつも必ず寂しいとは限らないこと。家族が身近にいても感じる孤独。財産に不自由しないのに自宅で孤独死したケース。そもそも「孤独死」とは何をもってそう呼ばれるのか。
一人旅、独りユニバ、独りカラオケ、居酒屋独り呑み、孤独のグルメなど、好きで選んでいる孤独の良さもあります。「自己愛」と孤独の関係という話も出ました。
 
参加者皆様の多様なお話を伺いながら、アイザイア・バーリンの『自由論』(1969年)で定義される「消極的自由」が思い浮かびました。つまり外部からの制限や強制・干渉が無い状態を、バーリンは個人が能力を存分に発揮し特定の目的を果たす積極的自由と区別して、消極的自由と呼んだのですが、そうした自由の中でも、孤独の様態ということが、なお一様ではなく、人によって、また状況によって様々な捉え方があることが見えて来ます。
「孤独」は今の社会で高齢、独居生活、地域や職場などコミュニティでの孤立など誰もが直面する解決の難しい問題のように見なされますが、今回の哲学カフェのようなざっくばらんな会話をすることによって、新しい考え方の糸口が色々あることが見えてくると思いました。
参加者のご発言で「孤独は自分が思うこと」とあったように、孤独であることは所与の事態ではなく、その事について発想し、新たな捉え方を生み出してゆくことのできる事柄なのだと改めて感じました。
 
昨日のカフェは通例の黒板に書くまとめをしなかったので、感想を書いておこうとしたら、長文になってしまいました。
御参加下さったお一人お一人に心から感謝申し上げます。
次回は3月22日木曜日19時からの予定です。どなたでもお気軽にお越しください。

 

 

 

11月 30日(木) 教会de哲学カフェ 第 11 回を開催しました。

  
 11 月のテーマは、「 創造する力 」でした。
哲学カフェ第11回

 

今回は「〜は、〜か?」のような問いの立て方をせず、「想像する力」というテーマでした。シンプルで、抽象的にも、また具体例をあげても話を広げられるようなテーマ設定だったと思います。

 

まずそもそも「想像する」とはどういうことか、について、改めて問い直すと、人によってそのとらえ方が多様であることがわかります。

 

ある人の意見は「空想」、つまり現実にないこと、特に現実に存在し得ないものを思い描く点にバイアスを置いて想像することをとらえる。これは幽霊とかファンタジックな物語における妖精などのキャラクター、果ては「神」ということも、存在し得ないものへの想像というカテゴリーに入るでしょう。(これは宗教否定ではありません。神を「存在する」と定義することは不可能とされています。)
ある人の意見は想像のバイアスを、時間的に、未来像を思い描くことに置いている。これは将来に対する意欲とか希望を生み出す想像行為でもあるし、逆に、将来への不安や絶望という、希望を生まない想像にもなり得る。悲観は、想像力の欠如とも言えるのではないか、など。
ある人の意見は、入ってくる情報(見る、聴く、触るなど感性で得るもの)を受け取ることの「幅の広さ」のような感じで想像行為を捉えている。その際に、美しさ、不思議さへの感動とか、絵画(有名な美術ではなく、例えばハンディキャップを負う人が描いたアマチュア画)を観るときの興味、関心の強さ、熱心さということを基点に想像行為を捉える場合と、入ってくる情報や知識、現実に見て・経験していることについて自分の知識の助けでそれらの受け取った事柄を認識する精神的活動の中で、認識を「造り上げ」対象事物を大づかみに把握することを「想像」と捉えている。この視点からさらに、統合失調症の場合は受け取った情報に対処できなくなり知覚、聴覚、視覚的に経験したことが自分に勝手に「入ってきてしまう」のであり、いわゆる妄想は「想像する」行為と区別されるという指摘も出ました。
ある人の意見は、想像とは目には見えない(感性で知覚できない)人の気持ちに関心を寄せ、他人の考えや、何を望んでいるのかを理解しようとする営為として「想像」を捉えている。この場合は相手への関心や友情などの情愛の熱度として「想像する力」だと考えられる。目に見えないものに価値があるという基本的考えを根底に置いて、想像するということを理解しています。これは対人関係における人間力であると共に、例えばテレビドラマや小説というフィクション作品に共感することや、実際に経験してはいない過去の歴史(戦争体験など)について興味関心を抱いて、自分のことのように共感し、理解するという想像力にもつながります。

 

目には見えない、知覚できない感情や価値あるもの、人の気持ちや心を感受するということと、芸術作品におけるなんらかの普遍性を共感することとは通底しているのだということを、考えさせられました。この視点から気付かされたのは、想像するということを、ただ単純に存在しないものを思い浮かべるか具体的なものを思い浮かべるかの二者択一で考えることはできない、ということでした。参加者のいろいろな発言をうかがっているうち、ぼくは、近松門左衛門の「虚実の皮膜」ということ、芸術における美は実際にないけれども非存在でもない皮膜のようなところに存するという考え方を思い出しました。

 

これらの見解は参加者皆さんの実感や経験から具体的に提出されたもので、こうした対話を通して「想像すること」の創造的な意義、とでも言うべきか、積極的な価値に気付かされました。
また、哲学史上の「想像」についての議論である、カントが『実践理性批判』で規定した感性と悟性を繋ぐ「構想力」をさらに『判断力批判』で展開する、「産出的構想力」だとか「構想力と悟性の遊動」のような抽象度の高い事柄を理解する助けになる発言が、けっこう沢山あったと思います。こう書くとまるでとんでもなく難しい会話だったかのようですが、そういう意味ではなく、経験や実感から血肉になっている会話が、なかなか深く、考えさせられ、面白かったのです。難しい事柄も話しつつ、「SNSは”忖度”だらけ」なんていう名言?も飛び出したりしました。

 

アドベントの近づく寒い夕べにお集まり下さった皆様、本当に有り難うございました。今回は愛知県に在住で以前に参加されたことのある方も、リピートで来て下さいました。
(成田いうし)

 

10月 26日(木) 教会de哲学カフェ 第 10 回を開催しました。

  
 10 月のテーマは、「 『 生きがい 』とは 」でした。
  
10月26日(木)哲学カフェ第10回

 

今回のテーマは「 『 生きがい 』とは 」でした。その人の価値観としての「○○が私の生きがい」という枠を超えて、「幸福感、達成感を得られること」「誰かの役に立っていると感じられること」「自分を肯定できる、無条件に受け入れられていると感じられること」など、人生に対する肯定、積極性を生きがいと理解する視点が出されました。また、達成する目的を持っている状態を「生きがい」とするなら、必ずしもあらゆる人が常に積極的な目的意識を持っているわけではなく、だからといって目的意識のない人が「生きがいがない」というのもおかしいのではないか。他人と比べて自分の生きがいを計るべきでもない。今、特にこれという生きがいを持たない人も、今与えられている時を一日一日丁寧に生きていくだけで、自分を肯定できるという考え、また、今までと異なる価値観・好みに視野が開かれること、以前に興味がなかったことを「面白がる」ところに生きがいの原理を見出す、など、多角的に「生きがい」について語り合われました。フリートークの終盤には、高齢者の生きがい対策、老化や肉体の衰えに伴って「生きていて何の楽しみもない」という状態になったとき(もっとも、そのように語る老人は明るく達観して語っているとも言える)のこと、また、中高生や若い人の自己肯定感が低いケース、孤立し困難に陥るときに他人に「助けて」と言えない雰囲気の社会が、生きがいを感じにくくさせているのではないか、青春期に「どう生きるべきか」悩み苦しんだ経験にはそれ独自の価値があり、その後の人生の生きがいを生む力になっていること、など、テーマをより深める話し合いでした。哲学カフェは結論を生み出すトーキングではないものの、その人が気負うことなく「生かされているのがうれしい」という充実感みたいなことを、生きがいと言えるのではないか、というところにテーマが収斂したようにも思います。ご参加くださった皆様の積極的なトークに、今回も心から感謝申し上げます。次回は11月30日(木)夜7時からの予定です。テーマを後日、ご案内します。( 成田 いうし )

 

 

9月 28日(木) 教会de哲学カフェ 第 9 回開催しました。

  
 9 月のテーマは、「 『 和 』『 空気 』『 雰囲気 』ってなんだ 」でした。
  

哲学カフェ9月28日

「場の空気を読む」とか「雰囲気に合わせる」ことの是非について、また「いい空気・いい雰囲気」を創り出すことの大切さなど、多面的にお話が出されました。参加者皆様が積極的に考えを語って下さり、本当にありがとうございました。
次回10月26日木曜夜7時からです。

 

8月31日(木) 教会de哲学カフェ 第8回開催しました。

  
 8月のテーマは、「 『 許す 』 ということ 」でした。
  

 

哲学カフェ第8回板書 1

 

哲学カフェ第8回板書 2

10名の参加者お一人お一人から、「 ゆるす 」という、なかなか一筋縄では語れないテーマについて、文字通り一筋縄ではなく多様な角度から体験や考えを語り合いました。

 

事前案内のときは「 許す 」という漢字を用いましたが、ご参加のおひとりから「 許す 」は行政用語では許認可の意味に限定されるので、個人の倫理道徳の範疇で言われる「 ( 相手を )ゆるすこと 」の意味には当たらないとの指摘を受けました。

 

日本語の漢字でも 「 ゆるす 」 に5〜6通りあるようです。 同じ一つの言葉でもそこから各人各様のイメージがあります。
こどもの喧嘩で「仲直り」すること、
仕事の上下関係で部下の ミス等を「大目に見てやる 」こと、
自分に対して受け容れることのできない振る舞いをした相手を「 ゆるしたくないがゆるす 」こと、
「ゆるせない」とか「ゆるさなければならない」という自分の主観の問題として、など、
多様な視点から語られ、1時間30分では話し尽くせない感があった回でした。

 

参加くださった皆様に心からの感謝を申し上げます。次回は9月28日木曜19時からの予定です。( このページのトップに案内 )

 

 

 

 

7月27日(木) 教会de哲学カフェ 第7回開催しました。

  
 7月のテーマは、「競争することは良いことか悪いことか」でした。
  

 

 

「良い」とも「悪い」とも決められない問いに、様々な角度から活発に意見や体験談が出され、「競争」について掘り下げていきました。

 

今回も終わった時には黒板は皆の言葉で埋め尽くされました。
ご参加下さった皆様のおかげで、良い会になりました。感謝致します。

 

 

 

 

 

 

         

 

    参加者はクリスチャンでない方が半数、お一人で来場くださる方ばかりです。

  いかなる勧誘も一切ありません。対話を楽しむ自由な会ですので、

どうぞお気軽にご参加下さい。

 

6月22日(木) 教会de哲学カフェ 第6回開催しました。

  
 6月のテーマは、「なんのために働くか」でした。
  

 

開始前の様子。
 受付でお菓子を選んで、好きな席についていただきます。
今回も満席になりました。
 終盤に、見学したいという中学生を連れて来て下さった方がありました。
若い世代の中にも興味を持って下さる方がいることに、大きな喜びを感じました。
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 今回も黒板に書ききれないほど様々な意見や経験談、考えが出されまし た。
 

5月25日(木) 教会de哲学カフェ 第5回開催しました。

 

5月のテーマは
「怒り」とどう付き合いますか?」

でした。
 
今回もおかげさまで満席になりました。リピーターの方も初めて参加下さった方も、互いの話を尊重して聴く姿勢と、率直さを持って対話に臨んで下さいました。
夫婦喧嘩などの日常生活における怒りだけでなく、私憤や公憤について、心理学やアンガーマネジメントにも話題は及び、あっという間の1時間半でした。
参加下さった皆様に感謝致します。
 

 

 

 

 

 

 

 

4月27日(木) 教会de哲学カフェ 第4回開催しました。

 

 
4月のテーマは
「今、手に入れたいもの
手離したいもの」でした。
新年度、新学期という時節柄、抱負や断捨離といった身近な内容になるかと思いましたが、参加者皆様が積極的に多方面からテーマを掘り下げて下さり、
このテーマは人それぞれの価値観や人生観の反映であることに気付かされました。
予想以上に対話が深まった会となりました。
 
 参加して下さった皆様に感謝いたします。

 

 

 
おかわり自由の飲み物とお菓子
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

3月23日(木)、教会 DE 哲学カフェ

第3回 開催しました。

 

毎回、ご好評をいただいて満員となっている「教会de哲学カフェ」。今回もテーマに沿って活発な対話が交わされました。
「哲学」と言うよりも、参加者それぞれの仕事や学校生活や地域社会等での生活を通じて得られた、
率直な意見や経験談がたくさん出されました。楽しく有意義な時間を分かち合うことができました。
ご参加下さった方々に感謝申し上げます。
初めて教会に来られた方も多くおられます。
今後もクリスチャンでない方々も気軽に集っていただけますように、願っています。

 

 

 

 

2月23日(木)、教会 DE 哲学カフェ

第2回 開催しました。


2月23日(木)19時より、磐上教会 DE 哲学カフェ vol.2 (第2回目)を開催いたしました。
出席者は定員を超える13名。10〜20代の学生、青年から70代までの幅広い層の方々が出席下さいました。
今回のテーマは「 好きな言葉、嫌いな言葉 」 。
家族の会話、地域社会で、職場で、大学研究室で、就職活動で、様々な人間関係と様々な状況の中で出てくる具体的な
「言われて嬉しい言葉」「言われたくないこと」「勇気づけられた名言」などなどをめぐって、
互いに年齢も立場も多様な出席者から互いの人生観、社会分析、世代による感覚の違いなど思い思いに語られ、時間を超過して話が弾みました。
皆様のご参加に感謝し、次回もお待ち申し上げます。
次回vol.3 は3月23日(木)19時、テーマは追って案内いたします。お申し込みはこのHPからも可能です。

 

哲学カフェ Vol 2

 

哲学カフェ Vol 2

 

 

 

 

「教会de哲学カフェ」Vol.1、満員の盛況でした。ありがとうございました。

磐上教会 教会de哲学カフェ

 

磐上教会 教会de哲学カフェ

 

昨年12月にお試し版を行ったあと、1月26日から正式に「教会de哲学カフェ」がスタートしました。
今回は10代から60代の、様々な立場の人達が、「友達」について語り合いました。
参加して下さった方々から、有意義な時間だった、楽しかった、参加して良かった、との声をいただきました。
始まったばかりの小さな会ですが、至らなかった点など改善しながら、より良い会にしていきたいと願っています。